伝記「三浦 保」

第八章 <夢拡ぐ>飛翔より

三浦は考えた。優れた能力と学ぶ意欲を持ちながら、家庭の経済的理由で進学が困難な

学生を手助けできないものか。これから二十一世紀に向かって、国際社会で信頼され創造

的で活力ある世界を築いてゆくには、なんといっても教育が一番だ。経済的に恵まれない

学生を対象にした奨学金給付事業を行うことで、これからの社会に有用な人材の育成の一

端を担い、ささやかなりとも地域社会や国際社会に貢献できればと考えた。


















三浦は、まず妻の昭子に自分の思いを打ち明けてみた。

「それはいいことですね。」即座に昭子は賛成した。

「若者達には、大らかに生きてもらいたいからな。これからの世の中、どうなってゆくか創造も

つかん。いろいろと難しい時代になるだろう。不透明な時代だからこそ、賢く生きる為にも、

勉強がますます重要になるというものだ。向学心のない人間は、取り残されるしかないだろ

うな。」三浦は静かに話した。

「難しいことはわかりませんけど。若い人達の手助けが少しでもできるのであれば、こんな

うれしいことはないですね。子供のいない私達には、そのくらいのことしかできませんもの・・・。」

昭子は屈託のない声で言った。



こうして、平成二年(一九九〇年)四月、財団法人「三浦教育振興財団」が設立された。

その役員・評議員は次の通り。

理事長

三浦 保

三浦工業(株)

代表取締役会長
常務理事 川人 明美 (株)三浦研究所 代表取締役社長
理事 宮内 俊男 松山短期大学 教授
桑原 慶人 桑原産婦人科 院長
門田 圭三 南海放送(株) 代表取締役会長
桝田 三郎 (株)伊予銀行 代表取締役
高田 周蔵 (株)愛媛相互銀行 元代表取締役会長
森 信義 (株)愛媛銀行 代表取締役
濱田 喜太郎 愛媛信用金庫 会長
監事 武智 スミ硯 税理士
近藤 芳一


評議員

妹尾 泰利

(株)三浦研究所

専務取締役
富田 洋司 (株)光鉄工所 代表取締役社長
村田 健之助 (株)四国製作所 代表取締役会長
森川 正俊 五色そうめん(株)森川 代表取締役社長
宮田 信熈 (財)永頼会 松山市民病院 理事長・院長
門屋 齊 (株)門屋組 代表取締役社長
白石 省三 三浦工業(株) 代表取締役社長
三浦 昭子


奨学金の支給対象者は、愛媛県内の高校、大学、大学院に在籍する学業優秀な生徒学生で

経済的理由により、就学が困難な者とし、外国からの留学生も認めた。

三浦保は、奨学金を給付して事足れりとする、ありきたりの教育奨学の組織にはしたくなかった。

年に何回か、三浦は懇談会を開催した。奨学生達と直接顔を合わせて、話し合いたいと思ったか

らだ。教育振興財団の役員らの話も奨学生達の参考になるのではないかと考えた。

三浦研修所の食堂で懇談会を開いた。世代が違い民族が違った。しかし、実に楽しいと思った。

懇談会には、何か熱い雰囲気があった。アジアからの留学生達は、流暢な日本語で三浦に話し

かけてきた。みんな真撃な学生達で、一生懸命に何かを得ようとしているのが伝わってきた。

みんなが帰った後、「少しは善いことをしたのかな」と、三浦は思う。金銭だけを給付するのでは

なく、1人でも多くの知人や友人らと出会う場を提供し、人生の励ましの足しになればと、三浦は

思った。



「愛は愛を生み、信は信を生む」三浦保はこの言葉をよく使った。人間愛ほど素晴らしいものはない

という固い信念があった。

彼は、昭和五十二年十二月十日に財団法人愛媛保護観察協会副会長に就任して以来、死去する

までずっと更正保護事業に携わった。六十三年五月三十日には、愛媛県保護司連盟会長に就任

した。名前だけの副会長や会長ではなかった。

日本の更正保護制度は、犯罪の増加と矯正施設での過剰拘禁が大きな問題となっていた昭和

二十四年七月、犯罪者予防更生法が施行されたことによって、社会内処遇の責を負うという新しい

理念の元に警察製作の一翼を担うものとして発足した。



三浦が保護士になったのは、五十二年十月だった。三浦工業の未成年の従業員が事件を起こした。

三浦はそれまで優等生の若者しか知らなかった。自分の会社の人間はすべて、どこに出しても恥ず

かしくない者ばかりだと確信していた。

その少年は、盆休みに友達をナイフで刺した。三浦保は家庭裁判所に駆けつけた。少年の心は閉ざ

されたままだった。いくら三浦が聞き出そうとしても、友達を刺した理由を話そうとはしなかった。三浦

は仕事の合間に松山家裁へ通った。

三浦の熱意に根負けしたのか、少年は理由を話し始めた。交際している彼女のことを悪く言われたの

で腹を立てたらしい。プライドを傷付けられ、カッとなって刺したという。


三浦は保護観察処分の少年の就職を世話した。三浦工業には戻りづらいだろうと、知り合いの建設

会社の社長に頭を下げた。その後は真面目に働いているようだった。年賀状が毎年届いた。三浦保

は彼からの年賀状を一番心待ちにしていた。だが、建設会社に就職して三年目の夏、彼は建設現場

の転落事故で死んだ。

その日、三浦は辛い酒をひとりで飲んだ。そしてその夜、保護司になろうと思いたった。






人間は誰も傷を抱えているのかもしれない。傷でないまでも、脆くて敏感すぎる部分を持っている。

それを逆撫でされると、誰だって何をするかわかったものではない。それを防ぐには、真の愛しかない

と思った。真実の人間の愛しか−。

それと教育だろう。たった一回限りの人世で、命を賭けてやり遂げたいと思うこと、したいと願うことの

ための仕事、それを見つけるための知識を得る教育。清らかな矜持を持ち、逆境にも挫けず、品性

高潔で勤勉で、向上心豊かな人間になる為の教育である。

この正しい教育を受ける機会のなかった若者が、自分を見失い、自制心をなくして、夢を持たず、覇気

のない人間になるのだ。



三浦は思う、若者はみんなどこかそれぞれ凄みのあるものなんだ。つまらないことでいじけたりしないで、

溌剌と活き活きと育ってほしい。風に向かって、顔を真っ直ぐ上げて歩いていけと。決して負け犬になる

な。いつも明るい目をしていろ。キラキラした瞳で何事にも挑戦しろ。

わしは訳もなく若者が好きだ。好きでたまらない。君たちが泣く顔も好きだ。ほんとうに、明日は君達の

ためにある。悔いのない一生を終える為に精一杯生き抜け。どんなことが待ち受けていようと、君たちは

勇敢に立ち向かえるはずだ。


三浦保は平成五年(一九九三年)七月「三浦だより」という三浦教育振興財団の小さな機関誌を発行した。

その紙上で、奨学生達に語り掛け、奨学生達にもレポートや随想を寄稿してもらうことにした。また、国際

化・高度情報化の時代に対応する為、海外研修制度を設けた。毎年何人かの学生が海外で見聞を広め

ることができるようにと。

昭和四十四年の夏に、三浦自身が初めて米国視察旅行で体験した”あの衝撃”を、カルチャーショックを、

奨学生達にも体験してもらいたいと思った。あの経験は、若い次期であればあるほど有意義なのではない

か−。